「2+0+2+1+3+1+1= 10 years 10 songs」映像担当

島田大介氏特別インタビュー

JP

EN

決してMVではなく 前を向いていくためのドキュメントを

「2+0+2+1+3+1+1= 10 years 10 songs」の起点となった「糸色 -itoshiki-」。その誕生の時から映像を担当し、以来2021年までほぼ毎年、曲に合わせて映像を制作・発表してきた映像作家の島田大介さん。メジャーデビュー前からRADWIMPSのMVを手がけてきた、まさに盟友と呼ぶべき島田さんが洋次郎から託されてきた思いとは?
あの日から10年。未曾有の災害と、人々の心、そしてRADWIMPSの楽曲に、映像を作ることを通して向き合ってきた島田さんに話を聞いた。

心が音楽や映像を求める時が来るから

まず、すべての起点となっている「糸色 -itoshiki-」が始まった経緯を振り返っていただけますか。

RADWIMPSとの付き合いはもう16年とかになるんです。ちょうど震災があった年も「絶体延命ツアー」の映像で携わってた頃で、洋次郎にも会うことが多かった。僕は震災の2日後に仕事で大阪に行ったんです。春のとても温かい日で、公園では子どもたちが駆け回ってたり、のんびり本を読んでる方がいたりと、本当に穏やかな日常がそこにありました。福島では1回目の水素爆発が起きていた頃だったんですが、なんだか温度差をダイレクトに感じてしまって。個人的に映像作家として何か伝える事ができないものかと考えていました。ちょうどその帰りの新幹線の中で、洋次郎から「被災地の為にみんなの言葉を届けたい」って連絡があって、じゃあその募集の告知映像を作ろうかと。東京に帰ってすぐにスタッフを集めて、制作にとりかかかりました。当時は節電が呼び掛けられていたので、電気は使わずキャンドルの灯りを使って、撮影もバッテリーが残っていたデジカメで1枚ずつコマ撮りしていって。そうしてできたのが「糸色 -itoshiki-」の最初の映像です。

「糸色 -itoshiki-」の活動をしていく中で、翌年からも音楽と映像を発表していこうという流れになっていったのでしょうか。

そうではなかったんです。彼もずっと模索し続けていたんじゃないですかね。だからこそ翌年の「白日」は、洋次郎が前日の3月10日にメンバーに連絡して、急遽レコーディングすることになったんだと思います。

同時に、島田さんにも連絡が来たと聞きました。

そうなんです。「明日、YouTubeにアップする」ということだから、撮影してすぐに配信するような状況で。撮り始めた時にはまだ曲も完成していなかったので、ラフの曲を使って撮影を始めて、3月11日の明け方の朝の光までを撮って、最後に完成した曲と合わせたという。僕は普段、MVを多く手掛けているわけですが、このプロジェクトの映像は脚色も演出も出来るだけせずに、どこまでもドキュメントでありたいと考えました。それに加えて、前向きでありたいという思いもあった。それは洋次郎も同じ気持ちだったと思います。

「前向きでありたい」という思いの背景をもう少し教えていただけますか。

僕は大学生の時に阪神淡路大震災を経験し、震災直後は飲み物や食べ物などが最優先だったんですが、だんだんと娯楽も求められるようになっていったということを感じていたので。

心が音楽や映像を必要としていく、と。

そうですね。だから被災地の状況を伝えるということよりも、観てくれた人が少しでも前向きになれるように、という気持ちを込めて映像を作っていました。SNSとかでは、「そういうのやってる場合じゃないのに」といった声も聞こえてきましたが、それでも僕はこうした曲や映像が必要になる時がきっと来ると思っていたんです。

脚色や演出をしないという部分には難しさもあったかと思います。

毎回、本当に難しかったですよ。テーマ自体が繊細ですし、通常のMVのように打ち合わせを重ねれば重ねるほど演出的な部分が出てきてしまうので。だからこそ映像には毎回、その年の3月11日当日の映像を使ってきたということはあるかも知れません。「白日」の時は曲自体が前日に作られたのでそうするしかなかったわけですが、次の年からは事前に曲をもらえることがあっても、事前に映像を撮るのはどうしても違う気がしたんです。やっぱりその日に撮った映像じゃないといけないと。自然とそう思ってやっていたことなのですが。

多くの人がその日に“思い出す”
ということ

2015 年の「あいとわ」で初めて洋次郎が映像に登場します。海へ花束を流すというシーンが印象的でした。

それまでは人をほぼ登場させない形で作ってきたんですが、この時は陸前高田に行くことになっていて、洋次郎が「俺も行こうかな」と。前年の「カイコ」で僕が被災地に行って撮影をした時の話をしていたことも一つのきっかけだったのかも知れません。僕としては“被災地に向けて”という思いから始まっていただけに、あまり直接的な表現はしてこなかったんです。ただその一方で、年を経るごとに被災地以外からも「毎年思い出させてくれてありがとう」といった言葉が届くようにもなっていた。より多くの人がその日に“思い出す”ことも大事なんだという考えも芽生えていて、そのためにはまず伝わらないと意味がないので、洋次郎やRADWIMPSの力は大きいなという気持ちもありました。

5年目の「春灯」(2016年)の後、翌2017年は楽曲の発表はありませんでした。

「春灯」の前くらいから洋次郎と「いつまでやるのか」という話は出ていたんです。もちろん被災地の人たちはまだまだ復興も半ばで、何かが終わったわけでもないし、終わるわけもない。その葛藤が僕にも洋次郎にもずっとありながらも、「春灯」の映像はある意味では区切りのような気持ちで作りました。色々な人に5年前のあの日を振り返ってもらう内容で、「5年も経った」と思う人もいれば、「5年しか経っていない」と思う人もいて、僕自身の整理しきれない気持ちも含めて、真っ直ぐに伝えようと思いました。

しかし、2018年に再始動します。

2018年に突然、洋次郎から「もしかしたらやるかも」と連絡が来たんです。正式な連絡がないままに11日になったんですが、念のため僕は、その日の空を撮っておいた。そしたら後日、「やっぱりやることになった」ということで作ったのが「空窓」です。長い付き合いで、友人でもある彼がそう動くのなら、僕も全力でやるよという思いはずっとあったし、東日本大震災に限らず、何かが起こった時に困っている人たちに寄り添いたいという洋次郎の姿勢に僕もすごく感銘を受けていましたし。

複雑な現状と感情をそのままに

今年制作された「あいたい」では、被災地の10年前の風景と新たに撮影された現在の風景を対比させています。

10年前の写真は、震災直後とその数ヶ月後の「絶体延命ツアー」の仙台公演の後に僕が撮りに行ったものです。新しい方は今回、このプロジェクトの10年をまとめると聞いて再び現地に撮りに行きました。僕自身もちゃんと10年の時間の流れを自分の目と心で感じないといけないと思ったんです。そして現地に行ってみたら、震災直後に僕がなんとなく思い描いていた復興と目の前の現実はまったく違っていました。たとえば石巻では子どもによる絵が描いてあった小さな防波堤があった場所に巨大な防潮堤ができていて、全然海が見えない。南三陸でも、あの日、町がなくなって、10年経って元通りになっているかというと、ただただ更地が広がっていて。復興とは何を意味するのか、その難しさを体感しました。良いとか悪いとかいう言葉では括ることのできないことがそこにはたくさんある。でも、だからこそ、昔と今の2枚の写真から観た人がそれぞれに感じてもらいたいとも思いました。

映像からは島田さんのその複雑な思いがそのまま伝わってきました。

南相馬の防潮堤に立って見渡した海が、とても穏やかではあるのに、僕には「無」に見えたんですよね。どうしようもなく虚無感を感じて。今年の曲の「あいたい」って、何に「あいたい」んだろう? そんなことも思いました。でも、曲に海の画を当てた時に、この海がものすごく全部を語っているような気がしてハッとしたんですよね。すごく穏やかにも見えるし、でももう戻っては来ない日常もそこに見える気がして。

最後に、10年の間に制作してきた映像を通して観返ししてみて、島田さん自身はどう感じましたか。

続けるということはすごく大事なことなんだなあと改めて思いました。RADWIMPSが毎年のように思いを発信し続けて、それによってたくさんの人たちがいろいろなことを感じたり、思い出したりしてきた。そういう感情や思いが重なってきたということにはきっと意味があるはずです。今、世の中はパンデミックのことでいっぱいになっていますけど、こうして震災から10年という年に改めて思いを被災地に、日本に、世界に発信するっていうことはすごく大切なんじゃないかと思います。10年が経っても、あの日から僕の中にある悶々とした違和感はずっと変わってくれないんですよね。そういう人は僕だけじゃないだろうし、だから洋次郎からまた急に「やろうよ」と言われたら、きっと僕はやるんだろうなと思います。

取材・文 日野淳(口笛書店)

TOP PAGE