広島 日記

2025年8月5日
10:22
広島へ向かう上空。快晴。
おだやかな気持ちと、少しの不安。
 
 
14:28
原爆ドームを見学。昼間の原爆ドームをじっくり見るのははじめてだった。いつも広島を訪れると見にくるけど、決まって夜。人が少なく、原爆ドームと自分の二人だけみたいな気持ちになれるから。夜はライトアップもされて、少し怖いけど幻想的。
今日は8月5日ということもあって人で溢れている。外国の方も多い。集まった人たちの様子も見ながら、犠牲になった学徒の慰霊碑をお参り。
晴天の下これだけ多くの人たちが集まっているが、もちろん祝祭などではなく、笑い声もない。どこか不思議な空気。祈りに近い、あたたかい静けさを感じる。
 
 
移動。
原爆の被害に遭い家を失った人たちが暮らしていた集合住宅を通過。かつては原爆スラムと呼ばれていたらしい。中には学校もあり、一つの巨大な街と化していたエリア。
今では多くの人がこの場所を離れ、住んでいる人は少数とのこと。新しくできたサッカースタジアムも通過。とても立派。
 
 
17:55
被爆経験者である梶矢さんのご自宅に行き面会、その後、資料館見学。あっという間。
濃密な時間だった。
 
86歳の梶矢さん、奥様が亡くなられ今は一人ご自宅で生活されていた。足取りもお話もしっかりされていてとてもお元気、生気に満ちていた。何より、力のある眼が印象的だった。熱をもって被爆した当時の話をしてくれた。
1945年8月6日朝、爆心地から1.8キロのところにある学童所で掃除をしている時に被爆。当時6歳だった。
本人は玄関、お姉さんは居間の雑巾がけをそれぞれしていた。突然ピカっという閃光、ちょっとしてからドンというものすごい轟音と振動、そして衝撃、風圧。たまたま玄関にいた梶矢さんは柱に守られ助かった。お姉さんは倒れてきた建物に押し潰され亡くなった。
家屋に押し倒された時何が起きているのか分からなかった、と。ただ上を見ると瓦礫の隙間から微かに太陽の光が見えた。そこを目指して力を振り絞り、瓦礫や柱やガラスを掻き分けなんとか上へと這いのぼる。傷だらけの身体。室内にいたことで直接の熱波は避けることができた。周りの家屋や建物は全壊。家の前には無数の人の列。「じき火事になる」と、皆が急いで避難をしている。6歳の梶矢さん、どうすればいいかわからずその列についていく。二葉山に避難する。数時間すると市内は火の海となる。山の上から街を見下ろす梶矢さん。その恐ろしさを想像する。真っ赤に燃える、街、家、人。
 
お母様の話をされている時が印象的だった。
自宅で被爆した母は爆風により飛んできた無数のガラスにより負傷。全身に何十箇所と刺さったガラスを父親が抜いてあげる姿を覚えている、と。左目にも刺さったガラス。麻酔もない。それを抜く父の姿を想像する。左目はその怪我により失明した。ガラスで母の顔面に深く刻まれた傷跡。
しばらくして梶矢さんは中学にあがる。授業参観で教室の後ろから見ていた母親を同級生の子供に「誰だあの化け物」とからかわれた。母に、もう学校には来ないでと伝えた梶矢さん。あの時は悪いことをしたなと思った、と語った。話をする梶矢さんの眼には涙が浮かんでいるように見えた。
胸が苦しくなった。苦しかった。
 
家族を奪われ、傷つけられ、アメリカ、敵国に対して憎しみが湧いたか、と質問してみた。アメリカに対してそれほど憎しみを抱かなかったと言ったのが意外だった。むしろ「負けた相手がアメリカでよかった」と梶矢さんは言った。
僕は知らなかったが敗戦に向かう当時の日本を4つに分断し、それぞれ違う国が統治する案があったらしい。詳細は忘れてしまったが「北海道・東北」をロシア、「関東・関西」をアメリカ、「九州」をイギリス、「四国」を中国といった具合に。ドイツがちょうど東西に分断し、別々の勢力が支配したように。それよりはアメリカ一国に統治されたほうがよかったと言っていた。この国にそんな歴史の分かれ道があったことをはじめて知った。
 
 
8月6日被爆した後、荒れ果てた市内を離れ山の方に住む親類の家にお世話になった梶矢さん一家。原爆投下直後、被爆した人への差別や偏見はまたたく間に広がり親類からも特異な眼で見られることとなる。自分たち家族は親類家族のいる母屋とは離れた部屋に隔離され生活したとのこと。そこからしばらく、「被爆者」として生活を送ることとなる。
 
長年、被爆経験者として自分は子供を作っていいのだろうか、子孫を残していいのだろうかという苦悩、もがきがあったと言っていた。
二十歳の時、原爆資料館で「被爆しても子供への遺伝的影響はない」と書かれた文言をはじめて見た時、しばらくその前で立ち尽くして動けなかったと言った。
「自分は子供を作ってもいいんだ」そう思えた時の気持ちを想像する。聞いている僕も、込み上げるものがあった。梶矢さんには現在二人のお子さんがいて、今もお盆と正月にはそれぞれ家族を連れて会いにきてくれるらしい。
 
 
被爆体験とは関係ないけれど、最初梶矢さんのご自宅にお邪魔した時、居間に遺影が飾られていて「奥様ですか?」と尋ねた。
「うん、亡くなってから7、8年になるかな。乳ガンで一度手術をして、5年再発しなければ大丈夫と言われておったんだがダメじゃった。5年目に再発し、その3年後に亡くなった」とおっしゃっていた。
ただ、死ぬ直前「ありがとう」と言ってもらえて救われたと言っていた。
「あんたと一緒にならなければよかった」「なんで私がこんな目に…」とか、何か文句を言われて死なれたら残された方は一生後悔し、心が休まらないと言っていた。確かにそうだなと思った。最期の言葉って、最後じゃないんだなと思った。誰かの中にはずっと残って、そしてまったく見ず知らずの東京から来たこんな僕の中にも、今残っている。
「ありがとう」と言って終われる人生を僕も生きたい。
 
 
 
広島平和記念資料館
何年ぶりかの来館。2019年にリニューアルされたということで、たしかに展示は大きく変わっていた。より原爆投下当時の実物、実際の写真の展示に重きを置いた内容になったとのこと。
今日は8月5日ということで中は超満員。とてもじっくり見れる様子ではなかったので、ツアーの時に改めて再訪してしっかり見ようと思った。
アメリカの人がとても多かったのが印象的だった。ヨーロッパ系の白人ではなく、アメリカの白人(長くアメリカに住んだので違いがよくわかる)。
この8月6日に向けて訪れる原爆投下当事国の人たち。こんな言い方はおかしいと思うが、ありがたいなと思った。自らの足で、自分の祖国がした行為が他国の人々にどんな影響を与えたのかを深く知ろうと、遠い国まで赴く。簡単なことではないと思った。
昨年資料館を訪れた人は200万人を超え、3割が外国の人だった。この資料館を訪れる人が増え続けていること、核そのものが年々増え続ける中でこの事実は小さくとも紛れもない希望だと思った。
 
館内に多数展示された写真。荒廃した市内、無数に散らばる死体、ケロイドまみれの背中、判別つかなくなった顔、治療を受ける子供。
写真というメディアの偉大さを知る。
どんな気持ちでシャッターを切ったのだろうか。そんなことを思う。目の前で悲嘆にくれる人、命果て亡骸となった遺体を前に、手を差し伸べるでも手を合わせるでもなく、シャッターを切る。心が張り裂けそうになる想いを想像する。
それでも「なんとかして残さなくては」という叫びみたいなものを感じる。執念。フィルムに焼きついた念、願い。ちゃんと「80年後の僕たちは受け取りました」そう言いたくなる。
 
じっくりと館内を見ることは叶わなかったが一つ、はじめて目にする資料があった。1945年7月20日から、実に49発の原爆の模擬爆弾が日本各地に投下されていた。大阪、神戸をはじめ名古屋、浜松、富山、西東京、長岡など広範囲に及び、それだけでも1600人以上の死傷者を出した。
その地域の中から7月25日広島、長崎、小倉、新潟の4都市に絞られた。
実に周到に練られ、準備された原爆投下だった。
 
 
 
 
 
 
 
ふと思う。
人間とは本来、戦うものであり、争いが避けられないものであり、奪い合うのが定石なんだとしたら。放っておいても戦う生き物なのだとしたら、なおさら難しい方を選びたい。
誰にでもできることではなく、簡単な方ではなく、平和を選びたい。せっかく生まれてきたのだから、僕らにしかできない方を選びたい。
そんなことを思った。
 
 
 
 
8月6日
 
7:26
広島原爆の日。晴れ。久々の5時起き。
地元の人に聞くと広島のこの日は晴れることが多いと言っていた。80年前の今日、天気のよさも大きな一因となり原爆投下は決行されたと聞いた。
再び原爆ドーム前へ。昨日とは様子が違う。デモ隊、警察、機動隊の群れ。人、人、人で溢れかえっている。拡声器で「戦争反対」「トランプ政権反対」の大号令。無数の旗、プラカード。異様な空気。どこか鎮魂の気持ちを胸に朝を迎えた自分には、唐突で、凶暴に見えた。同時に、人々の切実な想いなのだとも思った。
大勢の警察官や機動隊、皆長袖に防弾ベスト、重装備。とんでもない暑さの中、大変そう。
 
 
9:08
式典終了。式典自体に何か特別な感慨は沸かなかった。会場自体も離れていてスピーチの声もよく聞こえなかった。来賓、総理の、どこか形式ばった挨拶に聞こえた。
※後から全員のスピーチを文章で読んだ。広島県知事の言葉には熱量がこもり、切実な願いが溢れていた。四方八方に忖度していては誰にも届かない。伝えなくてはいけないという気概を感じた。
 
8月6日、午前8時15分。この時間に、この地で黙祷を捧げることができた。
この事実が、自分にとって一番大きなことだった。
「平和の灯」を、はじめて目にした。一年中絶やさずその炎は燃え続ける。その周りには水を張った池。どれだけ渇水になろうとその水は絶やさないようになっているらしい。原爆投下後、人々が水を求めて彷徨ったことからこのような造りにしたそうだ。
「地球から核がなくなった時、はじめてその平和の灯の炎は消される」とのこと。美しい目標だなと思ったと同時に、その日までの道のりの遠さにどこか悲しさを覚えた。
まだ自分には現実味のない願いのように聞こえた。少しでもそこに近づけるように何ができるのだろう。何ができるんだろう。
 
長い挨拶の間(じっとしていてもよく聞こえないので)、平和記念公園内を散策した。
韓国人被爆者の碑、引き取り手のない遺骨を納めた原爆供養塔をまわり、手を合わせお参りをした。
20万人といわれる原爆犠牲者のうち、広島では2万人もの韓国人犠牲者がいたことが衝撃だった。全体の10%。あまり語られることのない事実。もっともっと多くの人が知るべき事実だと思う。
 
式典が終わり、帰りがけ僕のことに気がついた地元の高校生たちが走ってきて、9時から佐々木禎子さんの紙芝居をやるから見て行ってほしいと声をかけてきた。残念ながら次の行程があるので丁重にお断り。声をかけてくれた女の子は合唱コンクールで「正解」を歌って優勝をしたらしい。嬉しかった。
 
 
式典スピーチの中にあった言葉で印象的だった数字。
「世界の核の9割をアメリカとロシアが保持している」らしい。
そんな単純な図式ではないにせよ全校生徒数百人いる学校で力のあるたった二人のケンカにみんなが巻き込まれていくような変な気持ち。「お前はどっちの側につくんだ」そんな勢力争いが繰り返される。両者ともに力があり弁も立つ。
中庸はなくなり、二者択一を迫られる。
大半の力を極小数の人たちが独占するという意味で世界の富の75%を世界の上位10%の人が持っているという事実にも似ていると思った。
支配する側、される側。
核もお金も、一度手にした人は他人には決して持たせたくないのだ。そして自分のは絶対に手離したくないのだ。人間は悲しいかな、そういうふうにできているらしい。
 
自分たちで到底扱いきれないものを生み出した人類の末路は、どんなものなんだろう。
 
 
 
 
 
なんだろ、この説明の難しい、そこはかとない苛立たしさは。
どこか形骸化していく挨拶。戦争において核を落とした世界一の核保有国、アメリカ。その傘に守られ続け、防衛、外交、あらゆる面で言いなりになる日本。
核廃絶を訴える声、声。切実なる声。一方で毎年着実に、この地球に増え続ける核。嘲笑われているような気になってくる。
誰かの願いを踏みにじる足。
全人類が「悪」と容易に判断できる凶器を、迷いもなく手にしたいと願う支配者たちの狂気。その支配者の中にも堂々と存在する「正義」。
地獄みたいだ。
 
 
 
 
平和とは、戦争と戦争の間に生まれる、ほんの気休めのような小休止なのだろうか。奇跡のような、ご褒美のような、休息なのだろうか。
そうやって「平和ボケ」した人類は性懲りもなくまた何事もなかったかのように争いへと向かうのだろうか。
人類はどうやらそれを繰り返し続けているらしい。何千年と。
この先の未来、何千年、何万年とそれを繰り返すのだろうか。そんなことを繰り返して、地球は果たして耐えられるのだろうか。
ノアの方舟はもうやってくる気がしない。
 
 
 
 
かつて1979年、NATO諸国に中距離核弾道ミサイルが配備されヨーロッパやアメリカで大規模な反核運動が高まり、1982年3月、広島で行われた「平和のためのヒロシマ行動」では約20万人が平和記念公園に集まった。本気で核をなくしたいという人々の願いが集結した。確かに、当時は70,000発あった全世界の核兵器。確実に減少はしてきている。ただこれを失くす、ということの難しさも痛感する。「ゼロ」にする難しさ。
拳銃を向け合っている者達同士が、拳銃を下に置く瞬間。しかもそれが何人もいる。下に置いたとして、まだ相手は胸ポケットにもう一つ隠してる可能性もある。「これで全部だ」どうやって相手の言葉を信じる?渦巻く疑心暗鬼。
容易ではない。
 
 
12:02
被爆したピアノを見学、そのピアノを管理し調律も行っている矢川さんという方にお話を聞いた。実際のピアノも少し試奏させてもらった。
広島駅からすぐのお宅で被爆したピアノ。長年矢川さんはこのピアノの音色を届けに全国に足を運んでいるとのこと。
今ではとても珍しい象牙でできた鍵盤。鍵盤のサイズも現代のピアノとは微妙に違う。象牙の肌触りはなんともやわらかで、はじめての感覚。今のご時世、絶対に作られることはない。
白鍵はたくさんの人に弾かれたことで茶色く、黄色くくすんでいた。それが愛しいなと思った。歴史だけが出せる色。たくさんの人がこのピアノを弾いてきたのだ。その時の気持ちを想像する。
昭和10年ごろに作られたピアノとのことで現在約90歳。チューニングはやはりピタリと正確というわけにはいかず、どうしても狂ってはいるが嫌な響きはまったくない。人間と一緒。90年経ってまったくの正調なわけがない。ガタがきて、ヨレるのが普通。そんな音色が心地よかった。音の滲み。
戦争、原爆をくぐりぬけ、ちゃんと今も鳴り続けている。その事実だけで充分だと思った。そして僕らの命よりもずっとずっと長く、存在し、この先も人の手によって演奏され続けてほしいと思った。
 
 
その後、最後のNHK岡崎さんとのインタビュー。
明後日第二子が産まれるとのこと。そんなタイミングでの広島原爆の日、訪問だったことを知る。
 
 
日本は戦後80年。
江戸時代のある時期を除いて、これほど日本の歴史の中で戦争が行われなかった時代はほぼ存在しない。明治維新以降だけでも西南戦争、日清戦争、日露戦争、満州事変、日中戦争、太平洋戦争。日本は戦争ばかり。
 
トランプ大統領は核によってあの戦争を終わらせられたと言った。アメリカの多くの人がそれを今も信じているのは事実だ。鵜呑みにする気はない。ただ一つ言えるのは、あの時日本は負けたから、この平和を手にしている。戦いのループから降りることができた。あまりに大きな犠牲だったけど、その犠牲を無駄にしたくなんかないと、それだけの痛みと引き換えに手にした平和なら、ちゃんと守りたいと強く思う。
 
 
 
 
 
核兵器とはなんだ。
人を殺めてしまうもの。破壊してしまうもの。
抑止力とはなんだ。
相手に特定の行動を思いとどまらせるための力。
 
核はない方がいいに決まっている。ない方がいいに決まっている。
でも、では、なぜこの国に拳銃はある。
一般市民の中に混ざって、警察は拳銃を所持している。なぜ。
そしてそれを是としている。
核と、拳銃の違いは?
一度に殺せる人の数?
では、なぜこの国にミサイルはある。戦闘機はある。
 
軍を持たない日本。それでも日本の防衛費は世界で10位に入る。
立派な軍事国家に思えてくる。
 
なぜあれだけの苦しみを経てもなお、人を殺める武器を持つ。殺戮できる凶器を持つ。
抑止力?
では、なぜ核を否定する。
 
そんな問いにすら僕はまだ明確な答えがない。
脆く、弱い。
吹き消されそうなほどか弱い自分の正義が、虚しくなる。
でも諦めたくはない、そう思う。
 
 
 
 
 
 
今回、岡崎さんたちの質問に僕はほぼ何一つまともに答えられなかった。とても無力だなと思った。でも、安易な言葉に落とし込むことを自分の本心がすごく嫌った。それだけはよくわかった。まだ言葉にするな、わかった気になるな、すぐ手の届く答えにすがるな。そう自分が自分に言っている気がした。やはり、テレビというメディアで語るには僕は役不足だった。取材を申し込んでもらってとても申し訳ないなと思ったが、自分はこういう人間であり、こんな人間に取材を依頼した岡崎さんたちにも少しは責任があるよと、若干開き直ってみたりする(すいません)。
 
ただ、この機会を僕にくれて、この日に広島に連れてきてくれて、心からありがとうございました。
 
 
 
 
野田洋次郎
 

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08:08

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もりやはるこ

初めましてこんばんは。 今、広島での日記を読ませて頂きました。 広島に行ったのは東北の大震災の後でした。 1人でゆっくりゆっくり、地元のボランティアガイドさんのお話も伺い、今を生きる私のできる平和への貢献を考えました。 忘れないこと、問い続けること、祈ること・・ 機会を作り、リニューアルした資料館を訪ねたいと思います。 ありがとうございましたm(._.)m

ys

洋次郎、ありがとう、充分凄すぎるよ。 広島の原爆ドームには修学旅行で行ったけど、あまりにも残忍過ぎて私は凝視出来なくて資料館を廻ることが出来ず、真ん中に突っ立ったまま顔も動かせなかった事を覚えている。 それを何十年かを経て洋次郎の言葉で伝えてもらったよ。 まだまだ理解出来てはいないけど、これからは目を背けないように、向き合うようにしようって思わせてもらえた人間がここに1人いただけでも洋次郎の役目は果たせてると伝えておきたくて書きました。 ありがとうございます!

いちご

広島に住む者です。野田さん広島に来てくれてありがとうございました。広島の事を書いてくれてとても嬉しく思います。私は8/6が来るたびに人がたくさん死んだ日、悲しい日がまた来たのかと思います。広島でずっと育っているので、小さい頃から平和学習をたくさんして来ました。被爆者のお話もたくさん聞きましたが、原爆を話す人からはアメリカに対する恨みを感じたことがありません。不思議ですね。私はどうして?って長年思ってましたが、日本人は優しいんだと思います。あんなにひどい事をされたのに、言葉が難しいけど許したのかなと。それよりも二度とこのような悲劇が起こらないように、日本がではなくて、世界が平和になるように(アメリカも含め)と願う心の広い人種なのかなと思います。そんな人達がいる日本、広島に生まれてこれて私は幸せです。今旦那は自衛隊の仕事をしています。彼は武器を持つ事が嫌いだと言います。だけど自衛隊になりました。人を助ける為に、国を守る為に。私は彼を誇りに思います。だけどいつかそんな仕事はなくなりますようにとも思います。世界が平和になりますようには難しいと思うので、みんなが毎日笑顔でいれますように。たくさんご飯を食べれますように。 またゆっくり広島に来てください。お好みを食べに。

服部 愛

大きな痛みと引き換えにした平和、本当にそうかもしれません。 とても大切な学びがあり、それをまだ…まだ守れていると思いたいし、自身は守る方でいたいです。 原爆記念館、私も行ったことがあります。 展示物のあまりの生々しさに衝撃を受けました。 現実にあったとは思えない、それほどのこの世の地獄。 残す遺すということの大切さ、意義。 残ることで苦しみを何度も繰り返す方もいたかもしれない中、それでも残して遺しておいてくださったことに感謝して。 洋次郎さんの文章、とても読みやすかったです。 賢さって、大事だなぁ…と。 難しいことをわかりやすく書ける、気持ちを文字に表現できるということ。 気持ちを残す遺す術を、いろんな表現でできるというのは自分の心を知ることにも繋がり、それによって自分を守る力にもできると思うのです。 表現への規制がなんとなく厳しくなってきている気がする昨今、きっと葛藤されることもあるかと思いますが、ご自身を蝕まれることのないように、ますますのご活躍をお祈りいたします。

瑛心

いつか僕も実際に現地に行き、自分の目で見て触れて思いに耽ることをしようと決しました。ありがとうございます。

渡邉利昭

放送を拝見した後、祈跡が聴きたくなり、妻と聴き、涙しました。 66歳の私が、洋次郎さんから色々教わることができることに感謝せずにいられません。

高山美保子

考えさせられた。向き合うことすら怖い。 愛し合いたい。

岡崎美紗

はじめまして。 NHK岡崎太希アナウンサーの義姉の岡崎美紗です。 RADWIMPSデビュー当時からのファンで 太希くんたら羨ましいぞーと思いながらおはよう日本を観させていただきました。 野田さんのまっすぐな眼差しに見入りました。 日記も読ませてもらいました。昔から生と死に向き合われていたと思います。私はそんな野田さんの歌詞に励まされて生きてきました。私は7年の不妊治療の末に授かった第一子が死産でした。部屋にこもって死と向き合うしかない時、ずっとRADWMPSの歌が流れていました。大声で声に出して歌いました。RADWMPS のすべての歌に救われました。今は3人の子に恵まれて幸せに暮らしています。諦めなくてよかった。もう何年前になるのかな、セットストックという広島の野外ライブで雷とコラボしたあの光景は今でも頭の中から離れません。その場にいたからこそ味わえるRADWIMPSさんの魅力に引き込まれました。 今は、朝ドラを観て通勤しています。主題歌を聞き、気を整え、生と死と向き合う病院で働いています。 伝えるのが遅くなりましたが、感謝しています。生を選ばせてくれてありがとうございました。 これからもずっとずっと応援しています。RADWIMPSの音楽を楽しみにしています。 追伸、太希くんに可愛い娘ちゃんが無事産まれました。

小泉

子どもの頃のひいおばあちゃんに戦争の話を聞いたことを覚えています。小学校の授業の一環でした。恥ずかしながら当時小学生だった自分は戦争に対して真剣に向き合っていなかったと思います。 10月にツアーで広島に行きます。RADWIMPSが音楽だけでなく歴史に触れる機会をくれました。平和記念資料館はじめ、脱原爆の最前線をしっかり、じっくり見てこようと思います。

しるく

あなたはまだ若いのに、しっかりと自分の感情と折り合いをつけながら戸惑いの心の声を紡いでいる。とても立派だと思った。感受性が強い分、肌で感じるもの、目にしたものから受ける衝撃と悲しみが身体に刺さり痛みを感じているはず。人として美しい心を持ち合わせている証拠。まだまだ日本は前に進める…英霊の皆様に恥じない生き方をしている若者がいることを誇りに思った。 核の保有については簡単に判断できないけれど、常に理想と人間の共生していくことの可能性を夢見ていたい。 原爆投下による無差別な大虐殺はどんな理由があろうと人としてしてはいけないこと。アメリカがその残虐性を正当化している限り人としてなっていない。まだ幼い魂のままでありこれからもさらなる成長が必要なのでしょう。 日本に日本人として生まれ、平和な時代に生きているからこそ、英霊に恥じない生き方をしていきたいと切に思う。ともに利他の心で歩んで参りましょう。日記の共有、ありがとうございます。

忍足

言葉にならないようなことを 言葉にしたくないようなことを 言葉にしてくれる人たちがいて とてもありがたいと思いました。

美佳

長いから、分けて読みます。 ようじろう、ありがとう。ありがとう。

倉知真紀

洋次郎さん、こんにちは。全文読ませていただきました。状況や洋次郎さんの感じられた思いが鮮明に伝わり途中目頭が熱くなりました。また、梶矢さんの様に思い出すのも辛い体験を伝えて下さる方に頭の下がる思いです。洋次郎さんの広島からのメッセージは沢山の方に改めて過去の悲惨さについて考え、未来の平和について自分なりにどうしたら良いのかを考える機会になったと思います。有り難く今を生きている私も平和について考えていきたいと思いました。お忙しい中この様な貴重なメッセージをありがとうございました。また、暑い中広島まで行かれて大変お疲れ様でした。これからも応援しています。

しょう

長崎出身です。小学生のころ修学旅行で行った平和記念公園に26歳になって久々に行きました。2回目。 去年までは興味すらなかったが今年はなぜか行きたくなった。洋次郎がインスタに写真を載せているのを見て。 来年以降も定期的に行きたいな。将来一緒になる奥さんや子供も連れていけるといいな。その日までその日以降も平和が続いているといいなと切に願います。

かとうふみこ

ありがとうございます 私は日本人なのに、広島を長崎を訪れたことがありません 原爆資料館を訪れる勇気もないのです 想像するだけで、恐ろしく悲しく、その世界に覆われてしまう自分がわかっている いろいろなドラマや漫画、アニメーションで戦争をわかっているふりをしています ガザの人たちをニュースでみて、飢餓で亡くなる人たちをみて、そうみているだけ… お若い野田さんのこのブログを拝見して このような発信を本当に大切に思います 私の夫は15歳年下で、アメリカになんか負けてとか言っているので 負けたから、自由に発言もできるんだよ と話してもわからない人もいます 負けたからある平和、たくさんの命、涙の上にある今 なんのために生まれて来て、何をしていくのか 私はまだ自分の使命がわかりません でも命を頂いたのだから、この時を生きていきます ありがとうございます

うらら

その場に行ったような気持ちになりました

阿部まゆ美

引き込まれるように最後まで読ませていただきました。ありがとうございます。私は最近瞑想するようになって、少しものの見方が変わってきました。2極化した世界(善と悪、上と下、光と闇、主従など)が当たり前のように生きてきました。でもどうやらそうではないらしい。全てはひとつ。ワンネス。混沌と入り混じっていてる。自分は個でもあり全体、すべてでもある。。。 ああ、おそれることは何もないんだな、全てもってるんだもの。そんな風に思います。 みんなこの世に生を受けた時は赤ちゃんで無力な存在なんですよね。 上手く言えないけれど、ちゃんと知ること気づくこと大事。そんなことを感じました。 野田さんのことをあまりよく知りませんでしたが、ご自身に正直に、これだけの文書を惜しみなく公開されることに感銘を受けました。ありがとうございます😊

りさ

ホロコースト、太平洋戦争、カンボジアのジェノサイド、ベトナム戦争、その他様々な戦争・虐殺についての資料館や映画・本に触れる度、そこには止めようとした人がいたことを思い知る。人を殺すことを正解とする時代に、保身が精一杯だった時代に、抗った人々がいたことを知る。それは正直希望ではなく、今の時代を生きる自分の無力感に繋がる。私たちが、どれだけ学び、戦争を恐ろしいものと感じ、二度と戦争はいらないと、人を殺すことを是とはしないと固く心に誓っても、票を投じても、世界は戦争をする方向に動いていく。ガキ大将2人を止められないのは、2人に何を握られているからなのか。 武力で思想を押し通そうとする首脳陣、テロを批判できるのはなぜか。 何もしなくても台風が来て地震が来て人は簡単に死んでいくのに、なぜまだ足りないのか。東日本大震災の時に多くの支援をくれた諸外国は、戦争中に再度あの規模の災害が起きても同じ行動をとるのか。それとも嬉々として攻め入ってくるのか。支援の顔をして乗っ取りにくるのか。 この時期多くのメディアが戦争について取り上げる都度、私が学ぶことに何の意味が、もう十分知ってる、とどこかやさぐれた気持ちになり、こんな考えが延々と頭をループします。 「もうすぐ滅ぶというなら尚更強く握るよ 明日は晴れるというならお気に入りの服で出かけよう」

Izabor Rodrigues

Nossa, que relato incrível. Impressionante!

えり

そうやって隅まで求めて求めて──その姿に惹かれて、よーじろーさんやRADの音楽が好きになり、救われてきました。 テレビで話されていたときも、言葉を慎重に、丁寧に紡いでいるのが伝わったし、梶矢さんとの対話では、どんどん前のめりになって語りかける姿に強く心を動かされました。 私は今高校生で、戦争や歴史の出来事は教科書や映画の中、あるいは遠い国の話として、どこか「自分の外」にあるような感覚で生きてきました。けれど、よーじろーさんの姿勢に触れることで、自分の考えの未熟さに気づかされ、視点を変えてみようと思えるきっかけになりました。 最後に日記を投稿してくださり、本当にありがとうございます。 これからも聴き続けたいし、音楽や言葉を吸収して感じていきたいです。応援しています。

鈴木

毎朝、朝ドラを観て、毎週、舟を編むを観て、そういえば、息子が中学の卒業式で「正解」を歌ったことを思い出し、この日記に辿りついた今日。 広島を訪れたことのない私にも、伝わる思いがありました。ありがとうございます。 子どもの頃、社会科で、日本は戦争をしない国と習い、母に、なぜ戦わないんだ?と聞いた時の返事を、忘れられないのです。 もう、核兵器を使ったら、世界は終わるから、死ぬしかない。みんな一緒だから、と。 化学の教師だった母は、核の恐さを他の人より理解しており、40年以上前に原子力発電所の建設に反対したような人なので、核の恐ろしさは、教えられていたのです。福島県住みなので、地震のとき、改めて認識しました。 あれが爆弾になるなんて…酷い話です。知識として知っているばかりではなく、知るために、広島には一度赴きたいと思いました。できるだけ早く、機会を作って。 言葉で伝えてくださり、ありがとうございました。

tomy

洋次郎の日記じっくり読ませてもらいました。 そして自分の中の『平和への願い』を改めて考えてみました。 戦争当時に生きていた人達の気持ちを考えるといつも感情移入しすぎて心が苦しくなるから 毎年8月はすりガラスを挟んだ心で漠然と平和を願っていました。「日本は2度と戦争をしない国になった」と教えられて育って来ました。 しかし、今の世界の状況をみると『平和を維持する事の難しさ』『当たり前だった80年は奇跡の80年だったのでは?』と疑問を抱くようになります。 核兵器を5000個以上それぞれが保有するアメリカとロシア。抑止力なんてもんじゃない。 洋次郎のまだ言葉にするな、わかった気になるな、すぐ手の届く答えにすがるなと言った本心が自分の中でもずーんと心の深いところに刺さりました。 今年は心のすりガラスを外して『平和への願い』を考えてみようと思います。 きっかけをくれてありがとう。私もまだ諦めたくはないです。

木村良美

全文読ませて頂きました。 すごく洋次郎のやるせなさが伝わりました。 たしかに戦争は人間が生きてる限りなくならないものかもしれない。 悲しい生き物だから でも悲しい生き物はそれぞれの考え方を持っています。 多くの戦争はしないの生き物の声が増えますように。きっと人間以外の生き物は戦争はしないのだろうね。

松田和子

読ませていただきました、涙が溢れました。 戦争のない時代にたまたま生まれた幸運を思わずにはいられません、過ちを繰り返してはならないと強く思いますがSNSに溢れる攻撃的な言葉や排他的な物言いにどうやったら届くのか、自分の非力、無力感に絶望するこの頃です。私が死ぬまでは戦争はないかもしれない、勝ち逃げできる世代です、子供や孫たちが戦争に巻き込まれるなら私達世代の責任です。 あなたの言葉には真実があり力があります、どうか伝え続けて下さい。

広畑祐人

広島在住の30歳てす。 小さい頃から8月6日が近くなるとその日になると学校やテレビや親から戦争の話を聞かされてました。当日は「またやってるよ」と他人事の様に見て聞いていました。 しかし、歳を重ねるにつれこの戦争の怖さや戦争に対しての恐怖や悲しさが増していきました。それと同時にこの広島に産まれた意味を考えさせられます。 今回、野田洋次郎さんが広島に来てくれて 色んな感情や想いをこうして日記にしてくれてそれを見た人が少しでもこの8月6日にこんな事があったんだと思い出してくれたら日本も平和に1歩近づくんじゃないかと感じます。 広島に来てくれて触れてくれてありがとうございます。

田村理恵

土曜日の朝、静かにしっかり読みました。 しっかり読みました。

ほみ

よーじろー。 いっぱい書いてくれてありがとう。 中学生の頃から、15年ほどRADのファンです。 やっぱりあなたの紡ぐ言葉が大好きです。 丁寧で、繊細で、まっすぐ。 あなたの歌詞や言葉に今までどれだけ心が救われたり、温かい気持ちになったか分かりません。 私も広島にいつか行ってみたいと思っています。 ありがとう。

保科 慈

野田洋次郎さま 朝、6時半に起きて、読んだ広島日記。 明確な答えがないことを、まっすぐに伝えてくださり、ありがとうございます。 気持ちを言葉にして、残しておこうと、それをこちらにも向けてくださり、ありがとうございます。 なんだか、ありがとうを伝えたくなりました。

お世話になります。洋次郎さんの日記を公開してくださり、ありがとうございます。苦しくなり、最後まで読み進めるためにお時間をいただきました。RADWIMPSの皆様は学説や論理、条理でもなく、とてもシンプルにひとりの人間として「心を大切にしよう」と伝えてくださっているように感じています。“心の贈り物”だと、わたしは思います。一人でも沢山の方へ届きますように。同時にあなた方の優しさが奪われないよう願っています。恵みや育みという類いの豊かさに心を向け、一方で現実をみつめるために気を強くもつ必要があります。それは自分を燃やし尽くすためのものではなく、心をあたためるための情熱です。沢山の美しさがあるのでいつもいつも燃やし続けることは難しいかもしれませんので、小さなことを楽しみながら。 豊かさは目的ではなく手段です。 これからもどうぞよろしくお願いいたします。

井上 真帆

広島に住みはじめて3年目です 就職でなんとなく広島に越して来ました 家から歩いて徒歩900mのところに 原爆ドームがあります 何度も何度も通り掛かってるし 平和記念公園内もよく歩いています ただ何となく未だ足を踏み込めてないのは 原爆資料館です 原爆投下から80年 今日は8/6だな…と思いながらも、あのひ なんとなく過ごして、人が集まっている原爆ドームを横目に路面電車で通り過ぎたりしてました その日。洋次郎さん居たんですね 日記全部読みました 私も原爆のことについて自分の気持ちをまとめることが出来るまでは知れていないし 知った気になっちゃいけないとも思うので 上手く言えませんが とにかく次の休みに一人で原爆資料館へ 行ってみることにした、ということだけ コメントでお伝えします

後城麻衣子

役不足ではないです 野田さんには言葉があります 揺れも感じます 伝えることが大事 ありがとう、 伝えてくださりありがとう 長崎出身の主人のおかげで 私の本籍地は長崎です ただの、書類の本籍地ですが この時期になると 胸がギュッとします 悲壮なのか、感謝なのか、平和への思いなのか 分からない ただ、大人が責任を持たないと 何もせず 後は若いものに任せたは無責任

石塚 奈緒

世界中の人がみんな1人も欠けず、争いが止み一瞬でも救われる刻が訪れることを祈っています。

たろう

来てくれてありがとう

A

考えた。あらたに 知らなかった事を知れた。 考える事を続けたい、やめないで続けていきたい。

Alisamiko

Thank you so much for sharing your thoughts on the seriousness of biological weapons and the devastating impacts of war. I have been to Hiroshima only once, but the atmosphere and lessons I absorbed there left a deep mark on me. It reinforced my belief that “no one ever truly wins a war.” Bloodshed, tears, loss, and destruction — these are the real outcomes of war. Thank you deeply for putting this into words. Peace to Earth.

ありがとう。

洋次郎の広島訪問の日記拝読いたしました。 読んでいるうちに先般亡くなられた元特攻隊員でもある裏千家15代家元 千玄室さんのインタビューを思い出しました。 「“平和”という言葉を使うの嫌なんです。戦争とか無残な殺し合いがあってこそ、“平和”って言葉を使うでしょ。それがなかったら“平和”という言葉、使いませんよ。どんなに謝っても、どんなに慰霊しても戻ってきません。だから、平和って言葉を使わない世界にしなきゃいかんのです」 千玄室氏のこの言葉は、とても考えさせられた。 洋次郎のこの度の日記も。 考え続けることが、戦後を生きる者の責任と信じて、私はこれからも考え続けることを改めて誓う。 追伸、洋次郎の日記の文末。 「やはり、テレビというメディアで語るには僕は役不足だった。」 役不足の意味を間違えて使用しているのかと思われます。 (役不足の意味:「役不足」とは、人物の力量に比べて、仕事や役割が不相応に軽いことをいいます。) https://mainichi.doda.jp/article/2020/02/26/1786.html 記載するかどうか迷いましたが、「舟を編む」をBSも地上波も楽しく見ているファンとして、つい記載してしまいました。

絵里香

洋次郎さん。こんばんは。 私も今日、原爆ドーム、平和記念公園に1人で足を運びました。 80年を迎える今年、行かなければならない気がして、神戸に住んでいますが、訪れました。私も洋次郎さんと同じことを感じました。 日本人もそうですが、外国の方々がこんなにもたくさん広島に訪れてくれていることに驚きました。 原爆ドームは負の遺産とも言われています。 資料館では家族伝承の長谷川さんの話も聞きました。 被爆された方々は、当時の出来事や思いを言葉にするまでに時間のかかる方もいれば、生涯を通して話さない人もいるのだと痛感しました。 80年の月日を経たことで、風化しつつあるところもあったり、広島でなければ他人事のようなところもあると思います。 ですが、私たちにできることは今を大切に生きること。そして、生まれた場所や環境、文化や宗教が違っても、お互いを受け入れ尊重することが大切なのではないかと感じました。

石田虹

ここまで広島のために日本のために発信してくれてありがとうございました。 私はたまたま広島出身で 小さな頃から戦争について学んできました。 社会見学は大抵広島平和記念資料館でした。 学生の時の多目的授業はほとんどが戦争に関係するものだったと思います。 洋次郎さんと同じように何故 人と人との間に序列が強くついてしまうような それがあったらあらゆる言葉は無意味になってしまうような、武器が未だに 武力国家の印象が薄い日本でもあるのは何故か 考えても考えきらないくらい私もまだ分かりません。 戦争だけでなく 毎日のニュースは人が亡くなる報道が耐えないです。 他人事ではなく悲しくなります。 昔に比べて最近の10代や20代の人は広島に原爆投下された日 長崎に原爆投下された日 終戦した日 日付が分からない人が多いそうです。 戦争に関する小説や映画、色々見てきました。 被曝経験をした方が語り継いでくれたからこそ分かる内容で 戦闘機には行くための燃料しか積まれていない 帰る時には燃料がない そもそも帰りの燃料が必要になる場面がない 帰ってくるはずのない夫や兄弟、父 今の私たちからするとはかりきれない程の苦痛を味わったんだと被曝経験の無い私たちからしてもよく実感します。 平和記念資料館に残っている資料や写真があるおかげで私たちは戦争の痛ましさを知ることが出来ます。 不謹慎ではありますが 戦争があったのが今の時代でなくて良かったと思うことがあります。 もちろん戦争がないに越したことはないと思っています。 今の時代SNSで誹謗中傷などがすぐ飛び交い ひとつの言動で誰かの命が無くなることもあるような時代になったと深々と思います。 戦争が今の時代に起こり その様子を写真に収めるジャーナリスト・カメラマンがいたとして 誹謗中傷が耐えぬようになると思います。 オーバーテイクというスーパーフォーミュラを主としたアニメがあります。 その作品に出てくるジャーナリストが災害時に津波から逃げている少女を撮影してあらゆる人から罵声を浴びせられるという場面がありました。 災害時や戦争 写真があるのと無いのとではその物事への重大さ危機感亡くなった方への追悼等 段違いに差があると思います。 1945年の戦争だったからこそあの写真があり それを追悼する人達がいて 何年も何十年も何百年ももっともっと語り継がれていけるのだと思います。 時代はかわるがわる何が良しとして何が悪なのか変わっていってるものもあります。 それに対して答えを見つけるのも難しくなってきていると思っています。 私も子供が1人いるので 妊娠する前は今の時代に子供を産んでいいものなのだろうかと考えさせられる時がありました。 それでも母は強いと自分の母から感じていました。 どの時代に子供を産んでも母が強くいれば 子供もきっと幸せであると。 RADWIMPSを好きになったきっかけは歌詞です。 洋次郎さんの価値観や感性に圧倒されて 曲の中の歌詞があまりにも複雑で わかるわかると一言二言では言えないような言葉が多く 自分には無い思いや考を見つけることが増えました。 洋次郎さんの言動力は素晴らしいものだと思います。

ピカーッ

野田洋次郎様 全て読ませて頂きました。 きっとここに書いてある何十倍も何百倍も何千倍もたくさんの事を貴方は思い感じたのではないのでしょうか。 その全ては貴方のとてつもない広い宇宙の中を彷徨い、やがていつか貴方のかたわれの音となり形は変われどもまた私達に知らしめてくれるに違いない。 そう思っています。 忘れてはいけないこと。 忘れるなよ、と。

永野莉音

洋次郎さん、私は2024年11月に20歳になり、2025年2月にひとりで広島に行きました。この原爆ドーム・資料館を自分の目で見て感じたかったからです。 父親の影響で幼い頃から歴史に興味があり、いつかこの土地に訪れたいと思い、20歳という人生の一つの区切りで訪れることを決めました。 初めて見る原爆ドーム、資料館。言葉を失い、ただただ見ることしかできませんでした。今でも思い返すと涙が出ます。 広島から帰った後、「リミニッセンス・バンプ」大人になった時、10〜30歳(特に15〜25)の記憶は濃く残ると言われていると知りました。今はただ今の生活を生きるのに必死ですが、この日見た感じた気持ちを、たまにでも思い出して、大人になっても忘れることなく、優しく強い人間でありたいと思います。 私が大人になった時、もう一度この場所を訪れたいです。

後藤 佐恵子

 野田洋次郎さま 読ませていただきたかった日記をUPしてくださり、ありがとうございました。想いが重く深く届き、読後には涙が溢れてきました。 今年は戦後80年。そのおかげで、いつも以上にいろいろなところで「自分のあり方」を見つめる機会をもらっていると感じます。「あんぱん」「命題」「戦争に関わった方々のお話」、そしてこの日記。 私事になりますが・・・。先日、10年近くぶりに宮城県と陸前高田に行ってきました。2011年4月夫が突然他界し、2011年6月から10か月、岐阜県より震災派遣教員として、東松島市で勤務していました。10年近くが経ち、被災地の姿をこの目で確かめたかったのです。宮城に行って、そして戦後80年を迎えて思ったことは・・・。 多くの人の命が失われた、震災という「天災」と戦争という「人災」。これは同じではないということ。「震災」はいつどこで起こるかわからない、けれど戦争は人が起こすもの。 私は、夫が他界したとき、夫の寿命を感じるとともに、残された私は、生きなきゃいけないんだと感じました。 現在、中学校で勤務しています。夏休み明けには、この夏に感じたことや洋次郎さんの想いを、生徒に話そうと思います。 夫が亡くなり私が生きている生かされている意味は、まだわかりません。ただ、これからを生きる生徒達が、やりたいことが思いっきりできる世の中であるように幸せであるように、未来について考える何かを手渡すことが一つなのかと思いました。そして、私は、教員をやっていながら、しっかりと向き合って対話をすることが苦手です。これを行うことも大事な一つなんだろうと思いました。 私の立場で、できることをやっていきたいです。 日記を読ませていただき、ありがとうございました。おかげでこうして考え文字にすることができました。この素敵な機会をいただけたRADに、11月に会えます。その時には、「ありがとう」をもっと言える自分でありたいと思います!

サリー

野田さんへ あなたの素直な思い、心に深く残りました。 平和を願うとは、日常に、すぐ目の前にあると私は思います。 いじめ、差別、これらが争いの始まり。 人をおもうことを忘れないでいたい。 人生の後半になってやっと当たり前なことに気づいています。 野田さん、ありがとう。

きよきよ

洋次郎くんの言葉だから、ここまで戦争のことを初めて読めた気がする。今までは泣きそうになってどこか逃げ出すように目を背けてしまうこともあった。やっぱり言葉遣いというか柔らかい言葉なんだなと思った。今度は自分で戦争や世界、日本について色々自分の目や耳で確認していこうと思った。

モリモト 

小倉で生まれ育ち、大学で広島に住み、広島が大好き。 小倉に原爆が落ちていたら、この世に生まれていなかったかも…。 広島、長崎、小倉 切っても切れない縁があります。 広島を訪れてくれて、有難う御座います。 誰の言葉よりも温かく伝わって来ました。

須藤涼音

洋次郎が見てきてくれたもの、感じてくれたこと、それを言葉にして残していく。これだけでもどれだけ大切なことか。戦争を経験していない私たちは戦争というものを、完璧に理解ができない、したくもない。でも、過去は変えられない、1度戦ったのなら、もう戦わない。戦争のない平和な暮らしがずっと続けばいい。じゃあ、平和ってなんだ。戦争がないだけで人類は平和なのか。なら、なぜ、怒る?なぜ、泣く?戦争がないなら、平和なら、ずっと笑っていればいい。平和の答えはみんな知らないのかもしれない。

ありがとう。

洋次郎ありがとう。 私たち夫婦も8月に二人目が産まれて、原爆の日のテレビや特集をみていて ふと旦那が 「学生時代に行ったきりになっている資料館へもう一度足を運びたいね。」って話をしていました。 私もみていてもう一度行きたいなと思っていたところで、同じ考えだったことに驚きもありましたがだからこの人を選んだんだよなと。 受け身だったあの時とは違う 学びたい、知りたいからの2人とも純粋な気持ちでした。 覚えているのはこども時代に見た衝撃的な展示で、その後言葉を失い当時の被爆者の方の話を泣きながら聞きていたこと。 その三年後に沖縄の戦場になった土地への訪問も機会があったのですが、広島の展示内容がきつく足を運ぶことすらできなかったです。 是非アメリカの資料館も行く機会があれば行ってほしいです。 私自身はまだ行けておらず情報で知っているのみなのですが、日本の内容や視点からは全く違いこれもある意味教育、洗脳なんだと思いました。 だからこそアメリカの方たちが日本の資料館へ足を運び日本の視点での事実を知ろうとしてくれる人に私は嬉しい気持ちがありました。 直接見ることはまだ叶いそうにないですが、落ち着いたら、家族で行ってみます。 洋次郎の言葉をしっかりと受け取りました。 他の誰でもないあなただからこそ、あなたの紡ぐ言葉だからこそ届きました。 ありがとう。

みこ

洋次郎さんのことば。私の涙が、いろんな色の涙が溢れます。 戦争は何がなんでも嫌です。絶対に嫌です。

16歳

矛盾がいっぱいあるこの世界で、ほんとの正解って何なのかなと考えさせられました。80年前のあの戦争を忘れず、これから自分たちが戦争体験を語る日がないことを祈ります。

mi

洋次郎さん、ありがとうございます。 28歳女性です。 答えの出ない課題、絶対ダメなんだけどどうしたらいいのか分からない思い、何もできず歯がゆい気持ち…… 洋次郎さんがこうして言葉に変換してくれてたこと、とても有難く、考えさせられました。 たくさんの人の心に届いていると思います。 発信してくれてありがとうございます。

DADAcco

多くの痛み、苦しみ、犠牲があってのこの平和なら、何がなんでも守る努力をするという考えに大賛成!そして自分にとっての逆転しない正義、揺るがない正義を見つけ両手でしっかり抱きしめていられる人でありたい…と、洋次郎の日記を呼んで思いました

はな

今、日記を全て読み終わりました。私は長崎の高校2年生で、今年の8月6日に初めて広島平和記念公園に行きました。 長崎も被爆県ということもあって、小学生の頃から毎年、この時期に向けて平和学習をしてきたので、他の地域の方よりは(比較するのもおかしいかもしれませんが)戦争の悲惨さ、平和の尊さを知っているつもりでいましたが、実際に広島原爆の日当日に平和記念公園に行って、当時のまま残っている原爆ドームを見て、なんだか当時の様子がこの建物から伝わってくるような、この建物がなにか訴えかけてきているような、学校で学習してきたこととは比べものにならない、言葉にするのは難しい、何かすごいものを感じました。(言葉足らずでごめんなさい) 当日ということもあって、野田さんもおっしゃっていたとおり、たくさんの人がいて、中には外国の方もたくさんいて、デモがあっていたり、横断幕を掲げて何か訴えていたり、私は当日はもう少し静かに平和を祈るものだと思っていたので、会場の活気に少し驚きはしましたが、日本の方はもちろん、外国人の方も灯籠流しをしたり、長い行列に並んで慰霊碑に手を合わせたり、世界には平和について考えてくれる人が少なくともこれほどいるんだなぁと少し嬉しい気もしました。 私も慰霊碑に手を合わせると同時に、心からこの世界の平和を願い、そしてもっと世界中の人にこの場所を訪れて平和について考えて欲しい(特に国の上に立つ方々)と思いました。 今の世界を見ていると、平和とはとても言えない状況ですが、私は一被爆国民として、一人間として、今の私には願うことしかできませんが、戦争の悲惨さが、平和の尊さが、もっともっとたくさんの人に広まっていくことを願っています。 この野田さんの日記、私は長い文を読むのはあまり得意ではないのですが、すごく心にスッと入ってきました。すごく勉強になることもあり、共感できる言葉もありました。平和についてもう一度考える機会を、ありがとうございました。🙂‍↕️

ひより

「安易な言葉に落とし込んでわかった気になりたくない」という表現がすごく心に刺さりました。私は今高校2年生なのですが、昨年アウシュビッツの強制収容所に行きました。両親が稼いでくれたお金で行かせてもらった以上、何か言葉で感想をと思ったのですが、現地で感じたことを言葉に上手く表すことができず不甲斐ないなあと思っておりました。そんな時に洋次郎さんのこの日記を読んでまるで自分自身のあの時を言語化していただいたようで凄く嬉しくなりました。答えがあるものではないかもしれないけれど、これからも平和について向き合っていきたいなと思いました。ありがとうございました。

mmk445

あまりにも多くの痛みやかなしみ、苦しみに、向き合う勇気がありません。 野田洋次郎という、人間が見た色を景色を感覚を通して、思う時間を持てました。 夏は息が詰まる。意識の奥に押し込めている事実が疼くから。 守りたいものがある今、正義や正しさの輪郭はとても鈍い色をしています。 怖かったね、苦しかったね、悔しかったね… 全ての犠牲となった命に、合掌。 野田洋次郎さん、ありがとう。

nori

はじめまして。広島に住むnoriと申します。あの日この地に来られてたこと、後で知ってとても驚きましたし、NHKの番組で慰霊碑に手を合わせている野田さんを見てとても嬉しかったです。お忙しいスケジュールを縫ってわざわざ訪れて頂き本当にありがとうございました。 そして長い日記。どこまでも深くどこまでも真摯に戦いや核について考えておられて、やはりすごい方だなぁと思いました。その向き合う姿勢に頭が下がる思いでした。 私はこの地で育った訳ではないけれど、人生の半分以上を広島で過ごしています。原爆関連ニュースは毎日のように目にするし広島にとって毎年8月6日は特別な日です。私なりに戦争や核について向き合ってはきましたが。そうなんです。安易に言葉に出来ないっていう感覚なんです。野田さんの言われる「わかった気になるな」という表現が心に刺さりました。 9割感じる事で良いのかなと思ったりします。 とても辛い事なんだけど、理解して向き合う事だったり、考え続ける事をやめないこと、を忘れない事からなのかなと思います。 戦いだったり核だったり人の愚かさを露呈する事柄は、神様が私達に与えた宿題なのかもしれない、とも思っています。だったらしっかり受け取らなきゃとも思います。愚かさを直視する出来事。これはダメな事と心に刻んで命の重さを感じ直す。戦争の記憶の意味がそこにあるのかもしれないです。 私は沖縄の糸満でも暮らした事がありますが、その地に残された永遠に治癒することの無い深い傷跡は、息ができなくなるほどの重みをもってそこにあります。その事実を伝える事は当事者の方にとってみれば辛い事だと思うんだけれど、伝えなきゃいけない。感じて下さい。考え続けて下さいと言い続けなければいけない。 被爆地広島にしてもそうなのかなと。その辺がようやく感じている私なりの捉え方です。 広島に外国人観光客、特にアメリカの方が来て下さること、本当にありがたい事だと私も感謝しています。 そして8月6日のなかば騒々しい街の空気も体験して頂き、あぁわかってもらえたかなぁってちょっと思いました。 野田さんを初めて見たのは東北の震災後のLiveで。(TVで見ました)震災にあったピアノを弾きながら涙を流す姿に野田さんの心を見たようで私の心も揺さぶられました。 RADWIMPSに夢中になりLiveも行きたかったけど、抽選に2年続けて落選し、三回目にして当選!喜んだのもつかの間そのコンサートはコロナ禍で中止になってしまいました。 そして今年ようやく当選しこの秋のLiveに参戦する事が出来ます。もう震えます。無茶苦茶嬉しいです。RADWIMPSが体感出来ること楽しみにしています。 調子に乗って長々とコメントすみませんでした。 野田さんの広島日記の静かな中にも熱さを感じるメッセージに私も何かを伝えたくなりました。 曲を通していつも勇気とパワーとそして癒しを貰っています。RADには感謝しかないです。 そしてまたこんなにも広島を大事に大切に考えて頂けたこと心から感謝します。この地を訪れてくれたのが洋次郎さんでよかった。洋次郎さんの感性でもって被爆地広島や8月6日を語ってもらえたのはとても幸せな事でした。 この度はありがとうございました🙏✨

うえだ真衣

私も、数年前、その日の広島に行きました。公園へ続く整備されたメイン通りに、鎮魂の祈りが満ちたその街が言いようもなく悲しかったのを覚えています。80年経っても変わらずに、悲しく、辛いのだと思います。 日本は核兵器禁止条約に批准していません。 その事実が日本の全てだと思っています。 この日記に、共感することがたくさんありました。🐜

野田洋次郎さんのラリルレ論を読んでいます。 アメリカに住んでいた期間があったからこそ 幼き頃に言われた言葉、色々な思いがあって 今回の広島に行かれたのだとこの日記を読んで さらに感じました。私は広島県出身ではありませんが何度か広島に行きその度に原爆ドームの前を通ります。今年で23歳になり産まれてからずっと平和な日本が当たり前だと思っていました。ですが最近の世界の動き、今の日本の政治状況などを見るととても不安になります。 かといって私には世界を日本を動かすことは 不可能で、でも少しでも考える、自分にできること選挙に行く、知ろうとするという事は今の私にも若者にもできる事だと思っています。

松永 しおり

洋次郎 広島に行って、感じて、それを伝えてくれてありがとう。 戦争という戦いでなくても、日常生活の中でも、人を傷つける攻撃する言葉をその人の正義という建前をもって安易にぶつけたり、ズルをしたり。素朴に、どうして躊躇なく罪悪感なくそんなことができるのか?不思議に思います。自分を大切にできることは大切だけど、だからといって他人を傷つけて良いと同義ではない。既得権や都合の良い正義を守ろうと、声の大きな人が事を動かし、やさしい世界をかりそめにしてしまう。かなしい。でも、自分の周りの日常さえ変えることが難しくて。日常の連なり重なりが世界だから、世界が変わることの難しさは気が遠くなるほどで。それでも、そう感じる自分をあきらめたくなくて考え続けている。洋次郎の言葉に救われながら。答えでなくても、伝え続けてくれてありがとう。これからも。

タケシ

安易な言葉を、僕も言う事は出来ません。 ですが、悩み、憎み、祈り、それらの思いを抱えながら、僕も一緒にこの難問と向き合い続けようと思います。 三人寄れば文殊の知恵。 今のRADWIMPSは三人どころか、世界中にいるファンも合わせれば数千万人です。(もしかしたら数億人かもしれません) 一緒に向き合いましょう。 僕たちの命が終わる、その時まで。

Ajeng

War always sacrifices innocent people. May there always be peace in this world. Thank you for the story you have written. Hopefully, when I go to Japan, I can visit Hiroshima too.

ミキ

ようじろうさんありがとう。 伝えてくれてありがとう。

賀来 りか

洋次郎の文章全部読みました。 争いは無い方が良いという誰でも理解できる当たり前を、全員で実現することの難しさ。 お金のため、生きていくため、有意な立場に立つため、国を潤すため、きっと争う理由は沢山あるし、各々の仕方なさもあるのかなと想像します。 そんな中、生きる事を国から支えてもらえたり、安心して当たり前に生活する事ができたりする日本に住んでいる私たちの想像力の未熟さも感じます。 解決できない、正解のない問いにどうやって向き合っていくか、どうやって関わっていくかを考えさせられる良い時間になりました。 お疲れ様でした。 そして、ありがとうございます。

KOSEI

全て読ませて頂きました。 野田さんの言葉を表現する力が優れているなと改めて感じました。僕は広島出身で小さい時から身近に戦争というものに触れてきて、物凄く考えさせられました。 一生このことを忘れず心に置いて、生きていきたいと思います。

しずく

俺とハグをして小さな平和をつくろうぜ洋次郎

小笠原理恵

世界のみんなの平和を信じています。 私が負けて平和になるなら私は負け者でありたい。 でも私の大切な友人・家族がつらい思いをするなら、私は立ちたい。

むう

この日記を読ませてくれてありがとう。 この世は矛盾だらけ 遠くにいる見えない見ることさえ出来ない権力、力のあるものの私利私欲のために 沢山の命や心が奪われていく。 力のある者に無意識にひれ伏しているかのように感じる時がある。 誰かの正義は誰かにとっては悪だと言うこと。 その逆も然り。 何が真実なんだろうね。どこに隠れてるんだろう。 人間はたった二人だけでも喧嘩をするし、仲直りをするのは難しい。 思いも考え方も同じにする事が二人でさえ出来ないのに、国同士なんて仲良くできるのかな。不思議。 支配下、弱肉強食、圧倒的権力、そんな言葉が頭に出てきてしまう。 洋次郎の言葉や思い、考え方、すごく好きだよ。日記読めて良かった。

純粋で綺麗な心を持ってる洋次郎が心の底から大好きです

酒井 アスカ

ふと8月6日を思い出すと、私は11時頃まで寝ていました。洋次郎さんの日記を読んでそれがすごく恥ずかしく思えました。 修学旅行で沖縄に行った時ひめゆり記念館に行きました。そこにも沢山の衝撃的で悲惨な写真がありました。改めて思うと、洋次郎さんが書いていたようにそれを撮る人がいたわけで。想像しただけで胸が苦しいです。 せっかく夏休みに、この日記を読むことができたので、遅れましたがこの8月中に黙祷を捧げに広島に行こうと思います。 来年は8月6日に。

ヨシコ

思わず、コメント。 全文読みました。 被爆者の方のお話、洋次郎さんの平和への切なる願い、モヤモヤ、、 いろんな思いが溢れていて、 読んでいて胸が熱くなりました。 ありがとう。 気づかせてくれて。

yok

平和を考える、難しい選択をする"努力"をやめないことが今の自分の"曖昧で脆い正義"で平和を確固たるものに近づける方法なんだろうと思う。 戦後であるからこそ、私たちは努力によって意見をすり合わせる機会がある。無駄にしちゃいけない。 誰も泣かない日が1日でも多くなることを願ってます。願ったことを忘れないでいたい。

ムラサキ

Xであの日洋次郎さんが投稿した写真を見て今の生の広島を感じたのできっと洋次郎さんがそこにいるのではないかと感じていました。 今年は戦後80年ということもあって私も朝ドラあんぱんを観終えた後ずっと式典を視聴し黙祷も捧げました。 現地で参列されてる方とても暑い中…と思いましたが被爆者の方々の暑さを思うと比較にならなくて…恐ろしくなりました。 広島県知事さんのお言葉と話し方は心がこもっていて熱意があり私も自分の心に響いたと感じていたのです。 下を向いて原稿をただ読み上げるだけでは何も伝わらないし響かない。 洋次郎さんがこの2日間で感じた重い想いを自分なりにしっかりと受け止めてこの機会に戦争、平和、核、命、人間とは?などについて考えてみたいと思います。 核の保有数=権力 なんて恐ろしいんでしょう… 逆転しない正義 今とても響く言葉です 洋次郎さん10ページの日記を公開してくれてありがとうございました。 いつか私も同じ場所を訪れた時何を思いどんな感情になるのかその日までの宿題にしますね。

長坂裕太

自分は20代だが、それでも、戦争を経験した人たちの声、写真、映像によって、多くのことを感じさせられる。 洋次郎さんの素直に平和を思う態度に触れ、良いなあと思う。なんだかラリルレ論を読んだ時を思い出す。 改めて、自分の中に、そして自分の周りに平和の砦を作っていきたいなと思わせてくれる。

ゆうき

野田さんの言葉で書かれる日記は何か心を奪われます。警察官が拳銃を持つのも当たり前だと思ってましたが、抑止力について確かに考えますね。正解はありませんが、野田さんの日記で考える時間ができました。ありがとう

景子

ありがとうございました。 終戦の日。 今日この日記を読めてよかった。 自分の祈りに、洋次郎さんの見て、聞いて、感じたもの、それを通して深まった思いが祈りに重なって届くといいなと思います。 素直な気持ちを、思考の機微を、言葉にして届けてくれる洋次郎さんが大好きです。 言葉の流れが大好きです。心地よいです。 ちゃんと向きあうこと。 答えが出ない自分を受け止めること。 でも、それでも諦めないこと。 わたしもそうあり続けようと思います。

戦争を知らない自分達は、第三者の目線でしかない。親から聞いてもそう。だけど、今また世界で戦争が起こっていたり。 人の命って何だろう?容易く感じたり、自分達だけよけれぱ、他人の悪口言ったりバカにしたり。でも、苦労を重ねて来た人は、どんな姿でも優しいと思う。 被爆地に行った時や映画観ただけで泣ける、何故か。 今は生きていくだけで、精一杯だから。心に余裕ない人間はいっぱいいるんじゃないかな。 今日は、終戦記念日。記念日とかおかしいとおもう。悲しい日だから。

はるか

番組を観て日記の全文を読みたいと思っていたので、公開してくださってありがとうございます。受け取りました。 わたしにも明確な答えがなく、この文章を読んで泣くことしかできません。 明日も生きて、考え続けたいです。

本当に心が動きます。 私も広島や長崎にもう一度足を運んで、実際に自分の目で見て感じて、自分が住んでいるこの日本という国が戦争をしていたその事実を、全然信じられないけど学んで。 なんの力にもなれないけれど、知りたい。学びたい。の気持ちを行動に移してみます。 若い世代は戦争があった事実、何年に何が起きた。くらいしか知らない人が多いと思うので、こうして発信していただき学べる機会を作っていただけてとても有難いです。

石川由紀子

私は広島の人の結婚しました。 なので何度も原爆ドームも行きましたし 広島の人たちの原爆に、対する思いを 目の当たりにしました。 3年足らずの結婚生活だったので また福岡に戻り 福岡で暮らしていますが 広島 と聞くと 原爆の事も 胸に深く思う事があります。 野田さんの書く詩にいつも心が打たれています。 私は言語化がうまくできないので 野田さんが言語化してくれた! そう!ってよく思うし、野田さんは 何を思ったんだろう?って いつも思うのです。 この文章もとてもわかりやすかったです。 心に響きました。

井上 妃世

全部読ませていただきました。 ぽろぽろと涙が溢れて止まりませんでした。 梶矢さんのように被爆された方の話を聞いて想像する気持ち、核は守るためなのか攻めるための武器なのかと葛藤してしまう気持ち、当時の記者に対する気持ち、今の平和がこの戦争のおかげだったなんで思いたくないのに、そう思わせてくる発言をする人。そしてそう思って納得してしまう人たちへのなんとも言えない気持ち。私も沢山たくさん想像して、簡単な言葉でわかった気になって表現したくない野田さんの気持ちに対し、なんて素直で真面目な人なんだろうと思いました。 私は今年で28歳。13か14歳の時にRADWIMPSの音楽に出会いときめいて、野田さんの書く歌詞が真っ直ぐで大好きになって教科書やノート、下敷きに書き連ねる日々でした。私のなんとも言えない気持ちを表現するには自分の中の言葉では安くて好きじゃないときに野田さんの歌詞が代弁してくれるから好きでした。今も大好きです。私にとってはこんなにもいろんな日本語を操れる野田さんが今回のインタビューで言葉にできなかった、と話しているのが驚きでそれほど胸の中の奥の奥の方に何かが刺さって、苦しくなって言葉にできないのかなと想像しました。本当にこの歴史にある戦争が今の平和ためだったとしたら、自分に何ができるのか。どう生きていけば先人たちに顔向けができるのか日々生きていきながら考えたいなと、そう感じました。ただただ今の幸せに感謝しかありません。当たり前に息を吸って吐いて生きられること、愛している人の隣で笑えることに感謝。そんなことを思わせてくださる日記でした。野田さんありがとう。

タニガワミサ

考えることをやめないと改めて感じる日だった

美森

私は、核、戦争に対して、なにも実感を持たず生きてきたのだなとこの文章を読んで思いました。人任せ、人のせい、何も行動せずに争いを嫌ってきました。人間の弱さが複雑に絡み合って、今にも崩れそうなところを核というものによってかろうじて維持されているのかもしれないな、と感じました。 平和になってから80年、これが普通になっていることはとても誇らしいことだけど、人間を信じながら疑いながら、それでも信じながら生きていきたいなと思いました。

陽永

自分の中にある戦争や、核についての思いを考え直す機会になりました。核抑制を訴えかけていても軍事力はやっぱり存在していて、そこが凄く考えさせられる部分だなと自分は感じました。 広島に行くことは出来なかったけれど日記を読んで、RADWIMPSのファンとして、洋次郎さんのファンとしてすごく良い時間になったなと感じました。ありがとう。そしてこれからも核が使われることの無い平和な世界でありますように。

高橋 菜摘

私は高校の社会科教員です。 戦争の話も、核兵器の話も、教科書に載っていること以上のことを話してやらねば、と思っています。 今の子どもたちに、日本の矛盾を知って欲しいから。 国防費やアメリカとの連携(立場上言いなりとは言えませんが)の話、自衛隊の話、いろんなことを調べたり、知り合いの自衛隊員に聞いたりして、少しでもメディアや政治家が言っている矛盾に気づいてくれと。 私が持てる限られた授業の時間で、1人でも多くの子どもたちが、野田さんのように自分で考え、自分の答えを探せるような思考力を持って欲しい…ただ、そう願います。 いつと野田さんの歌に歌詞に励まされています。 私は「正解」を教えるだけの先生にはなりたくない。頑張ります。

8maru

31年間広島生まれ広島育ちです。こんなに自分の親や自分の祖父母のように広島のことを身近なことだと考えてもらえていることがとても嬉しいです。私自身の祖母も被爆者で、病院で働く中でかなり多くの当時の犠牲者の声を聞きました。洋次郎さんが、自分の目や耳で当時を知ろうとしてくださる、その場に足を運んでくださる、そしてみんなに平和を訴えてくださること、本当に胸が熱くなりました。拳銃も核兵器も必要なくなるような未来が来てくれるよう、私も心底願っています。

瀧野 玲奈

nhkおはよう日本、拝見しました。 野田さん、日記の公開をありがとうございます。番組の最後に出ていました日記が読みたくてたまらずでしたのでうれしい。 私が大人になって戦争について知りたくなったきっかけ。墨田区の両国に震災記念堂と言う都の公園があり、東京空襲の中心地です。十数年その公園のそばで暮らしてから戦争について考えることが身近になりました。 だから野田さんが今回この番組に出てくださったこと、日記を公開してくださったこと、とても大きいです。考えるきっかけになった方が必ずいます。きっかけ、大事です。 誰にでもできることではなく、簡単な方ではなく、平和を選びたい。せっかく生まれてきたのだから、僕らにしかできない方を選びたい。 本当は皆、こんな思いがあるのではないか、 そう信じたい。私はやっぱりまだまだ人間を信じたいし期待したい。 "舟を編む"を観て、話すこと、伝えること、ことばに出す事、ことばを選ぶ大切さを改めて思いました。皆がそんなことを考えて話して笑い合えたら優しさに溢れて何かが変わるのではないか、と信じたいです。 私にできる大きなことはありませんが 私なりの唯一無味の詰め合わせを作りながら 生きていくことが少しでも周りに伝わったらよいなと思います。 "エール"ご出演の時から気になり、 "賜物"で確信となり"舟を編む"を観て再確信となりました。ファン歴が3ヶ月程ですが 毎日歌を聴きラリルレ論、泣きながら読みました笑 ギターを掻き鳴らし、腰振って踊る姿、優しい声、ファンにありがとうと言う姿が大好きです。ライブ、楽しみにしています。 お身体に気をつけてください。

山口 凌叶

読めてよかったです。 こうやって発信してくれるから、自分の中で考えることができました。 ありがとう。

岡本千明

広島に来てくれてありがとうございます。 この日は広島に住む人は絶対に 忘れられない、忘れてはいけない日です。 私たちは無力ですが、その日何が起きたのか、 それはこれから生きていく人たちに 伝え続ける事は出来るので、まずは 出来ることからやっていきます。 終戦の日を迎えた今日、 核兵器がこの世からなくなりますように。 そして、戦争で命を落としてしまう人が この世からいなくなりますように。 黙祷、合掌。

ゆうな

私にとって野田洋次郎さんの感じ方すごく素敵です。私も原爆ドームに足を運びたいとそう思いました。

三枝早紀

取材、お疲れ様でした。 本当に濃い時間だったんだろうなと思います。洋次郎の文章を、ひとつひとつの言葉を読んで8/6を大切にしたいと心から思いました。お恥ずかしながら私は広島出身でもなく修学旅行で一度広島および原爆ドームに訪れただけで、そこまで8/6や原爆を意識して過ごしてはきませんでした。最後に書いてあった通りわかった気になっちゃダメだとも思いました。 平和を祈って。

安井悠良

やっぱり野田洋次郎というひとりの人間としての言葉遣い、広島に対する思いが書かれてると思った。思ったことをありのままに書いたら意味はわかりやすいでもどこか深いという単語が沢山出てきてやっぱりRADWIMPSの野田洋次郎にしかできないことなんだなと思った。野田洋次郎の書く言葉遣いが大好きだ。そして広島県、長崎県で原爆により亡くなった方々深くご冥福をお祈りします。

れあ

洋次郎の言葉選びがすごく好きです。洋次郎にしか伝えられないことを伝えてくれてありがとうございます。

きんた

毎度ながら洋次郎の言葉にはいつもハッとさせられる事ばかりです。わからない事を伝えるとしても、ここまで自分の考えを巡らせたことを言葉にし、自問自答を繰り返し葛藤されたことがダイレクトに伝わりました。それと同時に全く同じ考えじゃないにしても、同じ方向を世界が向いてくれる事を祈るばかりです。 感動したと言うべきでは無いのかもしれませんが、僕はこの日記には大きな希望への力を感じました。洋次郎からの一方向じゃない、僕も同じ方向へ向きたい、その言葉がみんなに届けばいいのに、と心にグイグイ?ワナワナ?訴えを感じながら読み進めました。涙しました。 言葉にしてくれてありがとう

坂口洋子

父が被爆者でした。当時14歳。学徒動員で原爆投下後の広島市内に入り被爆しました。父は数年前に他界しましたが被爆体験については思い出したくないと語りたがりませんでした。父の気持ちを思い聞くに聞かなかったけれど、それでももっと聞いておくべきでした。そうすれば被爆2世であるわたしにもできることがあったのではととても悔やんでいます。 戦後80年だからではなく、戦争について、原爆について、関心を抱いてほしいと願います。平和とはなんなのか答えがどこかにあるのでしょうか。まだまだ戦争は終わっていません。

桑原麻友子

読み入ってしまいました。 洋次郎が広島で見てきたもの、感じたことがありありと伝わってきた素晴らしい日記でした。 ただ、最後の文章、、、役不足じゃなくて力不足なのでは?と変なところでモヤっとしてしまいました。すみません。。。

亜紀

洋次郎さん、大切な日記を読ませてくれてありがとう。 日本人として、今を生きる人間のひとりとして、戦争について、核について、正義について、私も考えています。 どうしたら人類は戦争を卒業できるのだろう。 どうしたらみんなでいっぺんに武器を捨てることができるのだろう。 そんなこと無理だと、あきらめたくはない。 自分や、自分の家族や大切な人が、誰かに殺されてうれしいひとなんてどこにもいないんだから。 自分や、自分の家族や大切な人が、誰かを殺すことになったとして、それを誰が祝福できるだろう。 あたりまえに、間違ってる。 あたりまえに、良くない。 なのに、どうして、誰も止めることができないのか。 人間って。 私も含めて人間って。 「守るために」 武器を持つこととは。 答えは出なくても問い続ける。 平和を願い続ける。 祈り続ける。 思い描き続ける。 自分にできることを考え続ける。 耳を澄ませる。 心の声に。 自分自身の心の声に。 大切な人の心の声に。 人類の心の声に。 怖くて震えてる人の心の声に。 あきらめたくない。 あきらめないよ。 あきらめないんだから!! この世界が好きだから。 いやなことも苦しいこともたくさんあるけど まだまだ生きていきたいから。 RADWIMPSがいるこの世界が好きだから! まだまだこれからなんだから!! 平和をあきらめないよ!!!

瀧野

野田さん、日記の公開をありがとうございます。番組の最後に写された日記がとてめた読みたかった。うれしい。 誰にでもできることではなく、簡単な方ではなく、平和を選びたい。せっかく生まれてきたのだから、僕らにしかできない方を選びたい。 私もそんなふうに生きたい。 手に入れたら手放すことのできない武器、お金、、人間ってなんなんだろうと思う。 51歳の私が生きている間に解決には至らないと思いますが、でもやっぱり人間の心に期待したい。そのためには知る、話す、伝えること。 "舟を編む"を見て、その伝え方、ことばの使い方の大事さを痛感しました。ひとりひとりの優しさから何かが変わると信じて生きていきたいです。私には何もできないかもしれないけれど、そんな思いを伝えて行きたいと思いました。自分なりの唯一無味の詰め合わせを作って生きていくことが未来に繋がったらいいなと思っています。

ありがとうございました。

櫻庭弥生(やどん)

わたしは54歳です。 娘は28歳、戦争に対する考え方も 戦争で亡くなられた方の気持ちも随分と違います 「戦わなければいい」と考える人 わたしは「戦わずにいられなかったんだよ、わたしは貴方の為なら戦うよ、そうゆうことなんだよ」 きっと答えなんか無いんだと けれど戦争に向かっている今を、ただ流されるなんて嫌だ

りょうすけ

戦争を体験していない我々(32歳です)世代。体験していない戦争のことを忘れない意味は、この伝えられてきた記憶こそが核を持たない日本にとっての抑止力だからだと思いました。 記事を読み、洋次郎さんには過去も未来も生死も飛び越えて、人より多くの声が聞こえるのかなと感じました。

Xにあの日投稿された洋次郎さんの写真を見てなにか今の生の広島を感じたのできっと洋次郎さんがそこにいるんだなと感じました。 朝ドラあんぱんを観終えた後ずっと式典を視聴し黙祷も捧げました。 現地で参列されてる方とても暑い中…と思いましたが被爆者の方々の暑さを思うと比較にならなくて…恐ろしくなりました。 私も広島県知事さんのお言葉と話し方が一国の主より遥かに自分の心に響き素晴らしいと思っていたのです。ただ下を向いて原稿を読み上げるだけでは何も誰にも伝わらないと。 洋次郎さんがこの2日間で感じた 思い(重い)気持ちがハタ

若松 采音

広島県在住の26歳女性です。中学生の頃からRADWIMPSの大ファンです。原爆の日に広島を訪れて下さり、ありがとうございます。私も広島に住んで26年経ちますが、やはりこの8月6日は考えさせられます。洋次郎さんの日誌を全て読ませて頂きました。そしてまた原爆や戦争、核について深く考えさせられました。1人でも多くの方にこの文章を読んでもらい、1人でも多くの方に知ってもらいたい、考えてもらいたいと思いました。本当にありがとうございます。

はしもとしずか

番組を観て、洋次郎の日記読んでみたいな、と思ってました。丁寧に想いを言葉にしてくれて本当にありがとうございます。今日、職場で黙祷をしました。自分なりに受け止めながら、毎年、自分にできることを考え続けていこうと思います。いつもきっかけをありがとうございます。もう一度、明日読みます。来年も読みます。ありがとう。

西川 桂子

しっかりと読ませて頂きました 野田さんよりはるかに先を生きてきた私ですがまだまだ知らない事ばかりでした 今、小学生の修学旅行などで原爆資料館へ行くのはやめた方がいいのではと…子ども達に刺激が強過ぎると…そういう声があるそうです 以前の展示も見たことのある私の心に確かに深く恐怖も刻まれていますが、紛れもない事実 知る事は大事だと思います 野田さんのように発信力のある方々が若い方々に何かしら伝えていただけたらとても有難いです どうぞよろしくお願いいたします

かにまる

広島で聞いたり見たり感じたり考えたりしたことを言葉にしてくださってありがとうございます。こんな言葉でしかお返しできないけど、しっかり受取りました。 争いのニュースを見聞きして思うこと、五体満足で生まれた体で何でそれを傷つけるようなことをするのだろうと。 私は日々心穏やかに過ごしたい。だから世の中の人すべても満ち足りた想いでいてほしいと思います。そのために自分のできることをしたいなと洋次郎の日記を読ませていただいて思いました。

安藤有梨

わたしも、去年の夏にはじめて原爆ドームを訪れました。その時の光景を思い出しながら、洋次郎さんの文章を読みました。 平和とは何か、平和のために武器を持つのか。その矛盾を、もやもやとした思いを忘れないでおこうと思いました。 わたしは、来年から養護教諭として働きます。安直ですが、子どもたちにも平和や命の尊さ、重さを伝えられるような養護教諭になれたらいいなと思います。 秋のツアーでは、初日の広島公演にも参加します。その時にも、平和とは、命とは、と考えて広島を訪れようと思います。

遠藤華子

洋次郎さんの日記、息を止めるように一気に読みました。 景色や空気、梶矢さんの声や眼差し、ピアノの鍵盤の手触りまで伝わってくるようで、 心の中が静かになったり、ざわめいたり、何度も立ち止まりました。 簡単に言葉にできない気持ちを、あえて急がずに抱えていようとする姿勢、 それ自体がもう「祈り」みたいだなと思いました。 私も8月6日の朝の空を見上げながら、 今日まで平和でいられたことを当たり前にしないように、 そして少しでも先へ渡せるように、生きたいと感じました。 広島の記録と記憶をこうして受け取り、丁寧に残してくれてありがとうございます。

香保(たこちゃん)

ありがとう。ちゃんと、読ませてもらいました。 広島で、また会おう。

arisa

よーじろーの言葉であらためて 広島に絶対に行こうと思いました

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